「カイザー?」
     よく訓練された相棒を連れたオーヴァードが一人、真っ白な大型犬を追いかけ走り出した。
     「待てカイザー、仕事中だぞ!」
     処理班の一員、碧人は、成賀市の支部に所属するUGNエージェントだ。彼が昨夜起きたバス爆発事件の詳細を世間に隠蔽するための事後処理を済ませ、目を覚ましたばかりの被害者の少女の記憶を操作し終わった頃には、沈んでいたはずの太陽は既に高く昇っていた。
     その「事件処理」中に覚えた違和感をUGNに報告し、その正体を調べようと、再び現場へ戻るために碧人が外へ出たときだ。飼い犬であり、勘のいい相棒のカイザーに強くリードを引っ張られて、目的地とは違う方向へと導かれていく。
     「待て。どうしたんだカイザー、いつもは待ってくれるのに!」
     大きな犬にリードを引かれて必死に追いかけていった碧人が辿り着いたのは、成賀市にある名門私立高校。
     普段は大人しいカイザーがその校舎へと向かって何度もけたたましく吠えかかる。
     「どうしたんだ……?いや、何かあるんだな、カイザー」
     カイザーの視線を追って校舎を見上げ、その一帯の気配に意識を集中させると、嫌な予感と事件処理中に覚えた違和感がじわりと背筋に広がり、軽い眩暈が呼び起こされた。くらりと揺らいだ視界の真ん中に、見えてはいけない不気味なものが映りこむ。碧人はその場から立ち去ってしまいたい衝動に抗って、片手で目を擦り、あってはいけないものを注視した。
     「なんだ、あれは」
     これまであんなものを見たことはなかった。見たことがないものだと認識した。
     バロールの発症者が使用する、空間を繋ぐゲートと似ているようにも思えたが、それと同じものだと納得するにはあまりにも異様な気配を発していた。
     白い犬が再び走り出す。柵が低い部分を越えて、校舎の中へと駆けるのを碧人は必死に追いかけた。UGNに連絡を入れながら走り、階段を飛び上がるように上った先には、一つの扉。それを開ければこの学校で最も空が近い場所。
     見回すと、そこには一人の青年の姿があった。
     強力なレネゲイドの気配と危険さを直感で理解させる奇妙な空気を纏った青年が立っていた。
     その姿を見た瞬間、頭の奥深くを針で刺されたかのように激しく痛んで、碧人は倒れるのをなんとか避けその場に片膝をつく。
     「……い、っづ」
     隣からはカイザーの唸る声が聞こえている。続いて青年の足音が近づいてくる。
     それから逃げなければならないと本能が訴えるが足は全く動かなかった。
     「君とは、三度目だったかな?」
     間近まで迫った、再会を喜ぶような朗らかな声の主を見上げると、そこには感情の読めない穏やかな――ぞっとするほど整った笑み。
     「相変わらず賢いじゃないか、カイザーは」
     碧人は青年が何を言っているのか理解できない。
     理解できなくて、頭痛を必死で耐える。耐えているうちに痛みは治まり、やがて代わりに冷や汗が額を伝った。
     断片的な記憶が写真のように激しくフラッシュバックを繰り返す。
     これは初めてのことではない。自身の記憶と勘が、違和感の原因はこれだと訴える。
     「思い出した?」
     ゆっくりと踵を返して一歩、二歩、離れたところでナイラルベルトが笑う。
     「けどね、今回はちょっと特別なんだ。頑張ってくれたまえよ、海の友人」
     追いかけ問い質そうとした碧人の身体から力が抜け、意識が失われていく。屋上の床に倒れた碧人を見届けてやれやれと肩を竦めると、ナイラルベルトは唇の端を軽く持ち上げて、広い空の中に姿を消してしまうのだった。





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